「温泉?」
「えぇ。宿泊券を頂いたんですけど、今度の休みに行きませんか?」
「私は構わないよ」
「私も」
「俺も」
「なら決定ですね」
温泉旅行
「凄い…」
「でけぇな」
「本当にここ?」
「間違ってはいないと思いますが…」
少し不安げに弥勒がフロントで法善と名乗れば笑顔の女将が対応してくれ、仲居が部屋まで案内してくれる。
部屋に向かう途中の廊下には高そうな画や彫刻が飾ってあり、高級な旅館だとわかる。
部屋もかなりの広さと豪華さを兼ね備えたもので、4人は少しずつ不安になってきて、仲居が部屋から出ていくと直ぐに珊瑚が弥勒へと問うた。
「弥勒さん、この旅館相当高そうだけど本当にタダなんだよね?」
「そのはずですが…」
「宿泊券見せて」
かごめが弥勒の持っていた宿泊券を見れば、確かに1泊宿泊可と書いてある。
「タダだね」
「うん」
「良かった…」
学生の身で、尚且つバイトも殆どしてはおらず、大金など持っているはずが無い4人にこの旅館の宿泊費など払えるはずがない。
「これで特に問題は無いですね。早速温泉に…」
「ちょっと待って」
温泉支度を始めようとする弥勒を珊瑚が制す。
「何です?」
「犬夜叉もかごめちゃんも何で何も言わないのさ?今夜は4人でこの部屋で寝るってことなんだよ?」
珊瑚の言葉に犬夜叉とかごめは何を言っているのか理解できないと顔を見合わせた後、納得したのかあぁ、と小さく呟いた。
犬夜叉にとっては前世の、かごめにとっては過去にあたる共に戦国時代で戦ってきた記憶故に2人は今更同じ部屋で寝ることなどどうとも思わないのだが、記憶を持たず、年頃の女性である珊瑚にとっては問題である。
「ごめんね、珊瑚ちゃん。弥勒さん、部屋って1部屋だけなのかな?」
「聞いてきます」
数分後に戻ってきた弥勒は、1部屋にしか泊まれないと告げた。
「ぇ、どうするの?」
「私は構わないんだけど…慣れてるし」
「俺も構わねぇぜ」
「私も構いません」
「ぅ…わかったよ」
「安心しなさい珊瑚。夜這いなどしませんから」
「夜這いとか嘘でも言わないでよ!」
弥勒の軽口に本気で怒る珊瑚を見ながら、かごめと犬夜叉がこっそり喋る。
「大丈夫だよね?」
「大丈夫だろ…多分。本気で何かしようとしたら止めるから安心しろ」
「うん。お願いね」
一抹の不安はあるものの、かごめも犬夜叉も弥勒が愚かで短絡的ではないことはよくわかっている。
「2人共、温泉行こうよ!14種類あるらしいよ!」
微妙な空気を払拭するようにかごめが明るく声をかけ、犬夜叉も賛同する。
その言葉に弥勒が続き、最後に珊瑚が続いた。
「菖蒲かな?」
「何だろう?」
数ある温泉の中からかごめと珊瑚が始めに選んだのは薬湯だった。
植物独特の匂いが強いが、不思議と嫌な気分にはならない。
「美容にいいらしいよ」
「なら髪の毛までしっかりと浴びなきゃね」
くすくすと笑いながら温泉につかる2人以外はその場に誰もいない。
そもそも男女別れているとはいえ、14種類も温泉があるのだから、大勢泊まっていない限りはなかなか他の宿泊客と出くわすことなど滅多に無い。
「かごめちゃん、さっきはごめんね」
「ぇ、何の事?」
珊瑚の言葉にかごめは何があったかと考えるが、かごめが答えを見つけるよりも先に珊瑚が言葉を続ける。
「本当はね、わかってるんだよ。弥勒さんは夜這いなんてする人じゃないし、犬夜叉はかごめちゃん以外に手を出したりしないって」
「て、手を出すとかっ…」
「ごめん、ごめん。変な意味じゃなくてさ」
「…」
「…さっきかごめちゃんも犬夜叉も何で私が4人で泊まるのかわかんないって顔してたでしょ?それ見て思ったんだ。信頼してるんだ…って」
「それは…」
戦国時代の記憶があるからだと言いかけたが、かごめはその言葉を飲み込む。
自分達からその話しはしないと犬夜叉と決めたのだ。
過去も大切だが、現在も大切だから…と。
「私だって弥勒さんを信じてる。ふざけた所も多いけど、本気で嫌がることはしないって」
「うん」
「ごめんね、心配かけて」
「ううん」
「楽しもうね、旅行」
「うん」
「どうだ?」
「もう大丈夫。弥勒さんは?」
「冗談で言ったのにってへこんでたけどもう大丈夫だろ」
「よかった。せっかくの旅行だから楽しみたいしね」
「…」
「犬夜叉?」
「そうだな」
「あれ?かごめちゃんも犬夜叉も弥勒さんもいない…ん?」
真夜中に目を覚まし、誰もいないことに疑問を感じた珊瑚の視線がかごめの寝ていた布団の上にある紙に止まる。
「【温泉に行ってきます】…か。かごめちゃん温泉に行ったんだ…私も行こうかな」
時計は真夜中を指していたが、温泉は24時間入れると聞いていた珊瑚は部屋に誰もいないということもあり、何となくの気持ちのまま温泉に向かった。
「これがこの旅館で1番大きい温泉か。確かに大きいね」
珊瑚がやって来たのは旅館で1番大きい露天風呂で、脱衣場には誰の服も無かったため、珊瑚はタオルを持たずにお湯へと向かう。
「お湯は少し熱いけど、夜風が冷たいからちょうど良い感じかな」
熱めの温泉へと浸かり、軽く伸びをする。
「夕方3つ入ったから、後は10あるのか。流石にそんなには入れないね」
少し残念に思いながら温泉を堪能していた珊瑚の耳に、水が跳ねる音が届く。
「何?」
脱衣場の方向からの音では無い事に直ぐに気づき、野生の動物でも入ってきたのかと考えるが、それにしては音が大きい。
「…」
慎重に、ゆっくりと音のした方に進んでいくと、何かの影が見えてくる。
それは直ぐに大きくなり、人の形になった。
「み、弥勒さん!?」
「何で珊瑚が…」
「それはこっちの台詞だよ!何で弥勒さんが女湯にいるのさ!?」
「落ち着きなさい。この温泉は混浴です」
「へ?」
「それぞれの脱衣場から入って、奥で繋がってるんですよ」
「ぇ…」
言われてみれば確かに弥勒の背後にも道はあるし、弥勒が現れたのは女湯の脱衣場方向ではなかった。
「…」
「間違えたんですね」
「うん」
「私や犬夜叉以外だったら大変な事になってましたよ」
「うん」
「…とりあえず、このタオルをあげますから使いなさい」
そう言って差し出されたスポーツスタオルを手に取った所で、冷静になってきた珊瑚は現在の状況を把握した。
珊瑚は裸の状態で、お湯が乳白色であるといっても弥勒に見られていないとは言いにくい。
様々な感情が渦巻く珊瑚の脳が下した決断は、その場からの逃走だった。
「ぁ…」
「珊瑚っ!」
弥勒に背を向けて勢いよくお湯から上がり、その勢いのまま駆け出した珊瑚は水溜まりに脚をとられてバランスを崩す。
体勢を整えることなど出来るはずもなく、珊瑚はそのまま仰向けにお湯へと落ちた。
「ん…?」
暖かいモノに触れている感覚を感じて珊瑚は目を覚ます。
「何?」
近すぎる何かから少し距離を取ればそれは弥勒で、珊瑚は出かかった悲鳴を寸での所で飲み込んだ。
混乱する頭で考えれば、温泉での記憶が蘇り、珊瑚は再度悲鳴を飲み込む。
恐る恐る確認すれば浴衣は着ていたので、恐らく弥勒が着せてくれたのだろうと感謝はするが、やはり羞恥心の方が上回る。
弥勒に抱き締められるような格好で寝ており、うまく動けない珊瑚は仕方なく目線をキョロキョロと動かすが、かごめと犬夜叉の気配は無い。
「いないか…」
「誰がです?」
「犬夜叉とかごめちゃ…弥勒さんっ!」
「珊瑚…」
力強く抱き締められた珊瑚は反射的にもがこうとするが、弥勒の声色に驚いて動きを止める。
「弥勒さ…」
「心配させないでください」
「ぇ?」
「落ちていく珊瑚を受け止められず、ずっと目覚めない珊瑚を見てどれ程怖かったか…」
「弥勒さん…」
「危険な事はしないでください」
「うん、ごめんね。ありがとう」
そっと力を抜き、珊瑚は体重を弥勒に預けた。
翌日
「かごめちゃん」
「何、珊瑚ちゃん?」
出発の支度をしている途中で、珊瑚が彼女にしては珍しく少しだけ遠慮がちにがごめに声をかける。
「ぁ…えっと…」
「弥勒さん?」
「っ…うん。色々あって…嬉しいのと、申し訳ないのと…」
「…珊瑚ちゃんの素直な気持ちを言えばいいんじゃない?ありがとう でも、ごめん でも」
少しだけ困惑した顔をしながら言う珊瑚の背中を、かごめは言葉で押す。
今の珊瑚はすでにするべき事を理解しているが、1歩が踏み出せないと気付いたから。
「…そうだね、ありがとう。言ってくるよ」
「頑張ってね〜」
廊下にいるはずの弥勒の元へと向かった珊瑚と入れ替わりで犬夜叉がかごめの隣に立つ。
「何とかなったな」
「うん。珊瑚ちゃんも吹っ切れた感じだし、これで2人も…無理かも」
「…そうだな」
犬夜叉とかごめの耳に声が届く。
珊瑚の怒りを含んだ声が。
「なんでお尻触るのさ!」
「減るものじゃないんだからいいじゃないですか」
「そういう問題じゃないだろ!!」
「まぁまぁ」
「弥勒さんの事を一瞬でも見直した私がバカだった!!」
何かを叩いたような大きな音が廊下に響き渡った。
2012.02.01
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